「や、······やった、か?」
ぜぇぜぇと肩で息をしながら、頬を流れる汗を拭って竜虎は辺りを見回す。
静寂を取り戻したのを確認し、ようやくほっと息を付いたその時。陥没したままのその大地から、ぼこぼこと連続して土が盛り上がるような奇妙な音が鳴り響いた。
次々に現れる無数の手は、まるで地面いっぱいに咲いた曼珠沙華のように赤い月に向かって蠢きながらどんどん伸びていく。
その数は、もはや数えきれない。
「嘘だろ······あれが地面から全部出てきたら、俺たちだけでは本当にどうにもならないぞ、」
目の前の悍ましい光景に全身から力が抜けてしまったのか、がくんと膝から崩れ落ちる。そんな竜虎の右腕を掴んで、無明が立たせようと引っ張った。
「大丈夫? ヘタってる場合じゃないよ」
「····わかってる!」
這い出てこようとしている殭屍の群れだが完全に姿を現すまでには、まだ時間がかかりそうだ。
(なにか、原因となるものがあるはず、)
無明は竜虎の腕を放すと、もう一度笛を口元に運んだ。
あの荒々しい音色とは真逆の、柔らかい優しい音色が奏でられる。同時にふわりと無明の身体が宙に浮き、殭屍の群れの中心へと昇っていく。
高い位置から見下ろし、笛を吹き続けながら眼を凝らす。笛の音に合わせて、ぼんやりと赤い文字で描かれた広範囲の陣が、赤黒い光を湛えて薄っすらと浮かび上がったのだ。
(こんな陣、見たことがない。陰の気が強くて禍々しい······これって、強い陰を招く陣なんじゃ····)
この陣が下にある限り、この地に眠る死体が無限に湧いて出てくる。これでは助けを待つどころか霊力が尽きて終わりだ。
「真下に大きな陣がある! これを破らないといつまでも湧いて出てきちゃうかも!」
声の方を見上げ、竜虎はくそっと膝に力を込めて立ち上がる。霊剣を握り直し、落ち着くために大きく息を吐いた。
冷静にならないと。
ここで自分たちがやられれば、この先にある都が殭屍で埋め尽くされてしまう。助けは望めない。離れることも赦されない。ならば。
「わかっている! 陣があるが術士がいないということは、どこかに媒介があるはず。それを無効化できれば、勝機はあるってことだろ!」
笛を奏でながら、その声に無明は小さく頷く。
(そのためには、この陣の形を把握しないと、)
宙に浮き続けるのはかなりの霊力が必要だった。今の状態ではあまり長くは持たないだろう。奴らを押さえつけながら媒介を探すが、今の自分には容易なことではなかった。
眼を閉じ、あの荒々しい音色を再び奏でる。土から這い出てこようとしている殭屍の群れは、またあの圧力で地面に戻される。
その強さに大地が震えて、地震でも起こっているかのように地響きが鳴る。
(これは······六角形の陣?)
先ほどよりもさらにくっきりと浮かび上がった六角形の赤い陣は、それぞれ線が重なる場所に黒い霧がかった部分が見えた。
(陣が下からもはっきり見える······よしっ)
まずは近い場所から取り掛かる。霊剣をしまい右手で印を結び、素早く片膝を付いて地面に強く両手を付く。途端に赤い陣に纏わりつく黒い霧が白い光に包まれて、すぅっと消えていった。
「よし、あと五つ!」
片手を付いて反動をつけ、勢いよく立ち上がる。上で鳴り響く笛と、下で蠢く殭屍の身体半分を交互に見ながら、次の場所へと駆ける。
あと四つ、三つ、二つ、と次々に媒体を無効化していく竜虎だったが、最後の一つに取り掛かろうとしたその時、笛の音が突然ふつりと切れた。見上げたその時、頭上の赤い大きな月に照らされ、ぐらりとその華奢な身体が傾ぐ姿が見えた。
黒い衣は月のせいか赤黒く染まっており、傾いだ身体が頭を下して、ゆっくりと無数の殭屍たちの待つ地面へと近づいていく。
まずい! と考えるより先に、再び自由を取り戻した殭屍の群れに向かって、地面を強く蹴ろうとしたその時————。
白い光を湛えた大きな陣が闇夜に咲き、この辺り一帯を照らすように展開された。
その瞬間、活発に動き出していた殭屍の群れが、再び強い霊力で圧し潰されると同時に、ぼろぼろと崩れて土に還っていく。降り注ぐ光は神々しく、まるで天女でも降りてきそうな光景だった。
突然の出来事に呆然として立ち尽くす竜虎だったが、次々に上がる獣のように耳障りな殭屍たちの悲鳴で、すぐさま現実に戻される。
「無明!」
辺りを見回しはっと何かを見つける。丁度陣を挟んで反対側。崩れていく殭屍の群れの先に、人影があった。
「無明、 無事かっ!?」
大声で叫ぶ。あの人影がそうに違いないと確信する。しかし眼が慣れてその姿が現れた時、竜虎は色んな意味で驚愕した。
そこには、薄い青色の衣を纏った青年に大事に抱きかかえられた無明の姿があった。
その薄青の衣が意味するのは、金虎の一族ではなく、碧水、白群の一族。そして竜虎はその人物を知っていた。
(········白笶公子?)
腰まである長い髪を、藍色の髪紐で高い位置で結んでいる背の高い細身の青年が、ゆっくりとこちらをふり向いた。
興味がないとでもいうように、無明を抱きかかえたまま、赤い陣を冷たい瞳で見下ろしている。
上空に展開されている白い陣は、今もなお殭屍たちを次々に塵にしていくが、いつまでも生まれ出るそれらに気付いたようだ。
「白笶公子、この赤い陣を無効化しない限りやつらは召喚され続ける。あとひとつで終わるので、それまでどうか力を貸して欲しい」
声の届く場所まで駆け寄って簡潔に話す。非常事態なので言いながら軽く拱手礼の仕草を見せ、相手は手が塞がっているため代わりに会釈で快諾の意を表す。
「········かまわない」
低い声が返ってくる。眉目秀麗な青年は口数が少なくあまり交流はなかったが、一応顔見知りではあった。毎年この時期にだけこの地に訪れる。まさかこんな所で出くわすとは、夢にも思わなかったが。
竜虎が最後の媒介を無効化し、赤い陣がゆっくりとあの禍々しい光を失っていく。同時に、宙に展開されていた白い陣が地面にどんどん近づいてきて、しまいにはすべてを地面に押し戻し、役目を終えたとばかりに消えてしまった。
✿〜読み方参照〜✿
殭屍(きょうし)、金虎(きんこ)、碧水(へきすい)、白群(びゃくぐん)
白笶(びゃくや)
駆け寄る気力も尽き、竜虎がゆっくりとふたりの元へ歩み寄る。こちらにそれを渡してくれと両腕を胸の辺りに掲げてみせたが、公子はまったく応える気がない。それどころか、そのままくるりと背を向けて歩き出してしまった。「君は、彼女を」 首を回してその視線の先にいる少女を見やり、そちらは頼むと会釈をした。竜虎はその先にいる青ざめた顔をした璃琳を見つけて、なんで戻って来たんだと言いかけたが、既のところで呑み込む。 胸に貼られた無明の符は、力尽きた後もその効力を失うことなく妹を守り続けてくれていたようだ。「怖かったろ? 立てるか?」 ふるふると首をふる妹を責めることはせず、代わりに、ほら、と屈んて背を向ける。璃琳は何も言わず冷たくなった身体を竜虎の背に預けると、首にきゅっとしがみついてきた。 まだ夜は明けておらず薄暗い。このまま邸に戻り見つかれば、様子がおかしいことがすぐにわかってしまうだろう。「白笶公子、無理を承知でお願いしたいのですが、」「問題ない。私が借りている邸へ運ぶといい。元々君たち一族の持ち物だろう、」 最後まで話し終わる前に、淡々と前を歩く白笶がふり向きもせずに快諾する。(白笶公子とは今まで挨拶程度しか交わしたことがなかったが、初めてまともな会話をした気がする······というか、口が利けたんだな、) 挨拶と言っても動作的な挨拶であって、日常的な会話すら交わしたことはない。誰かと話している姿を一度も見たことがなかったため、その声を初めて聞いた気さえする。 少しも動かない無明の様子が気になったが、今は意識を失っているようなのでどうにもならないだろう。(そもそも、なんでこんなことになったんだ?) あの赤い月も今は元の青白い月に戻っていた。全力で広範囲を走り回り、術を使ったせいで竜虎も限界だった。ただいつもの静寂が妙に落ち着かず、胸の辺りに靄のようなものを残したまま、紅鏡の都の灯りに安堵する。**** ――――あの時。 白い陣が現れたあの瞬間、傾いで落ちていく身体をなんとか反転させた無明は、闇夜を仰いだ。 体感ではゆっくりと流れるようだったが、実際は倍は速かっただろう。近づいていく地面を背に、思わず赤黒い月に手を伸ばしていた。 その手を力強く掴まれ引き上げられたかと思えば、そのままふわりと抱き上げられてしまい、思わず息が止まりそうになる
紅鏡の都の北側、金虎の敷地内の一角。 毎年この時期に行われる奉納祭のため、各一族従者を含めて十人前後ずつ、数日前にこの地を訪れることになっている。 それぞれに用意された邸は掃除も行き届いており、数日生活するくらいであれば足りないものはまずないだろう。客用の邸は本邸ほどではないが広い造りで部屋数も多いため、お付きの従者たちも不自由なく生活できる。一族ごとに用意されているので不要な争いもなかった。 白群の一族は宗主とふたりの公子を含めたった五人しか来ていないため、竜虎たちがひと部屋借りたとしても十分余裕があった。 白笶公子は宗主である伯父に事情を話してくれたようで、無明が目覚めるまで部屋を貸してくれることになった。 背中に白群の家紋である、蓮の紋様が入った白い衣を纏うふたりの従者は、とても礼儀正しく品があり、それでいて手際も良く、現状をすぐさま理解して無明の寝床を整えると、なにも訊かずに必要なものはすべて揃えてくれた。 竜虎と璃琳は、寝台で眠る無明の横でひと言ふた言話した後、また無言になった。(下手に仮面に触れられないから、なにかしてやろうにもできそうにない) 額から鼻の先までを覆う白い仮面。 生まれてすぐに宗主の手によって施されたもので、宗主と本人以外が触れれば強い力で弾かれ、触れた者、触れられた者のどちらも怪我をする。 触れた者だけならまだしも、無明までも傷付くため、下手に触れられないのだ。いったい何のために宗主がこんな危険な物を付けたのか。自分たちには知らされていない。 噂だけを聞けば、生まれた時顔が醜かったからとか、大きな痣を隠すためだとか、邪悪なものに呪われていてそれを封印するためだとか、様々である。無明もこの件に関してはいつも適当に誤魔化してしまうので、それ以上は聞けなかった。「璃琳、少し休んだ方がいい」 奉納祭では奉納舞を眺めながら、大人たちは酒を飲んだり一族同士の交流を深めたりするが、子どもたちは膳の上に用意された料理を食べ終えてしまうと、舞が終わるまで大人しくしているしかない。 今年の奉納祭は百年祭という節目で、いつもよりも豪華な飾りつけだったり、大きな舞台を特注していた。 虎珀に代わり仕切ることを決めた母は、四神奉納舞という特別な舞を舞う藍歌のために、この五日という短い期間で衣裳も新調していたようだった。いつもの母なら
太陽が昇る少し前に、先に目覚めたのは無明だった。身体を起こし、傍らで器用な格好で眠っていた竜虎を見つけて、思わずほっとする。(よかった。怪我は、していないみたい) 衣が少し汚れているだけで、大きな怪我などはなさそうだ。ふと向かい側に視線を移せば、先に逃がしたはずの璃琳がすやすやと眠っている姿が目に入った。 あれからなにがあったかは解らないが、みんな無事だったようだ。 寝台を下り掛けてあった衣を纏って、無明は音を立てないようにこっそりと部屋を出る。縁側から庭に出てみれば、塀の先の遠くの空がうっすらと明るくなっているのが見えた。「平気か?」 前触れもなくかけられた声に、油断していた無明は思わずびくっと肩を揺らした。その声はすぐ後ろからかけられたものだったが、それまでは気配すらなかった。 しかしこの声には聞き憶えがあった。 あの時、殭屍の群れから救ってくれた者の声と同じ、低い声音。「えっと、うん。あなたは俺を助けてくれたひと、だよね?」 頭ひとつ分は背の高い、すらりとしたその青年。自分たちより少し年上だろうか。 にっと口元を緩めて微笑んだ無明に対して、青年はまったくの無表情。眉の一つも動かさず、瞬きさえもしない。ただ無感情にじっと見下ろしてくる青年を見上げ、無明は両手を頭の後ろに組んで、懲りずににっこりと笑みを浮かべた。「助けてくれて、ありがとう! 俺は無明。お兄さん、じゃなくて····公子様の名前は?」 ここは一族の邸のひとつで、客用の邸だろう。そして衣の色が薄青なので、碧水、白群の公子であることは解る。 だが無明は本邸には入れてもらえないため、公の場で他の一族の者と交流したことがなかった。「白笶、」「びゃくや、公子様、ありがとう!」 臆せず無邪気に笑って、無明は改めて礼を言う。無口な青年が名前を教えてくれたことが嬉しかったのだ。相変わらず無表情で、真っすぐに姿勢を正したまま、物差しのように綺麗に立っているのがなんだか面白い。「霊力が回復していないようだが······、」 灰色がかった青い瞳は切れ長で、低い声は抑揚がない。淡々としている青年は、ほんの少しだけ怪訝そうな表情を浮かべると、眉を顰め首を傾げた。「やっぱり? ちょっと無茶しちゃったからな~」 仮面を付けた状態で霊力を大量に消費すると、しばらくは修練初めの門下生並みの霊
「お前、なんで先に起きたのに俺を起こさない! ········っと、白笶公子!? 」 部屋から大声でやってきたかと思えば、予想もしていなかった人物の姿を見つけ、背筋を伸ばし慌てて腕を囲って揖し、下げた頭で隠した顔からは一気に血の気が引いていた。 白笶も同じくこちらに向けて挨拶を交わす。表情からは何も読めないが、万が一いつもの調子で無明が痴れ者を演じていたとしたら、確実に失礼なこと以外していないだろう。 ずかずかと大股でこちらにやってきた竜虎の様子から、彼がかなり慌てているのが解る。それを解ったうえで、あえて普段以上に大袈裟な素振りで、無明はぶんぶんと手を振った。「そんなに慌ててどうしたの? なにか面白いことでもあった?」「どの口がっ······まさかお前、なにかしてないだろうな?」 最初の突っ込みこそ勢いがあった竜虎だったが、そばに寄って来た無明の肩を組み、愛想笑いを浮かべて白笶に素早く背を向けると、顔を近づけてこそこそと小声で訊ねてきた。 返答の代わりにへへっと楽しそうに笑った後、くるりと器用にその腕を抜けて、ふたりの間に立った無明が、竜虎に向けて任せろ、と言わんばかりに片目をぱちりと瞑って合図をした。(おい、ちょっと待て。なにかしろ、という意味じゃないぞ!) 咄嗟に手を伸ばして制止しようとしたが、それは見事にかわされてしまう。 案の定、弾みながら白笶の方へ駆け寄ると、彼が後ろに回していた左の腕に自分の腕を絡めていた。「命の恩人さんに、お礼をしなきゃね! なにがいい? 公子様っ」 ぐいぐいと引かれても微動だにしない公子に、気にせずに笑いかけて、犬のようにまとわりつく。馬鹿なことはやめろ、と竜虎が引きはがそうと逆に無明を引っ張る。 このやりとりにさえ公子は怒りも呆れもせず、ただ一点を見つめて、ひと呼吸し、ぽつりと呟いた。「········では、一緒に碧水へ」 その言葉にふたりは同時に動きを止め、え?と瞬きをした。どういう意味だろう、と。そのままの意味だとしたら、唐突すぎる。「え、ええっと、遊びに来てってこと、かな? すごく嬉しいけど、でも俺は、宗主の許可がないと紅鏡から離れられないんだ」 まさかの返答に思考が停止して固まっていたが、調子を取り戻して、無明は答える。 けして遊びに来てという意味ではないだろうが、解らないふりをして訊ね
「白笶公子、お世話になりました。このような状態で失礼するのをお許しください。このお礼はまた後日、改めてさせてください」 それらしく挨拶を交わし、竜虎たちが先に邸を後にする。もう夜も明け外は明るい。三人が一緒にいる所を従者や他の親族に見られても厄介なので、別々に戻ることにしたのだ。 姿が見えなくなった後、残された無明も邸を出ようと歩き出したその時、一瞬力が抜けてぐらりと身体が傾いだ。前のめりに倒れかけた身体を片腕で支えられる。油断していた。ここまで調子が悪くなったのは初めてだった。「邸まで送る」 答える前にひょいと抱き上げられ、唖然とする。「だ、だ、大丈夫っ。ひとりで帰れる!」 じたばたと暴れてみたが、少しも怯まないし動じもしない。何事もなかったかのように白笶はさっさと歩き出してしまったのだ。 明け方から騒がしい庭先に、ふたりの従者が同時に顔を出す。白笶はふたりに視線だけ送って「少し出てくる」とひと言声をかけると、ふたりは「お気を付けて」と同時にお辞儀を返した。「······君の邸は?」 もはや暴れるだけ無駄と悟った無明は、諦めて大人しく邸の方向を指差す。無明が住む邸はここからそんなに離れていない場所だった。「公子さまは見かけによらず力持ちなんだね、」「····君が軽すぎるのでは?」「そうかなぁ? 普通だと思うけど。公子さまは背も高くて美男子だから、人気者なんじゃない?」「······私は他人とはほとんど話さない」「そうなんだ。でも、初対面の俺とはこんな風にお話してくれるの?」「·········それは、」 口ごもるように白笶は言葉を詰まらせ無言になる。うーん、と無明は首を傾げる。初対面で他人の自分に対して優しくしてくれるのは、痴れ者と名高い金虎の第四公子であることを知らないから?「みんな俺のことを厄介者扱いしてるんだ。まあ、俺がいつもふざけて遊んでるからなんだけど。母上や竜虎たち以外は、みんな俺のこと痴れ者って呼ぶんだよ」「君は君だ····痴れ者かどうかなんて、私には関係ない。それに、厄介者でもない」 なんの抑揚もなくそんな事を言うので、無明はますます白笶が不思議でならなかった。でも「君は君だ」という言葉がなんだか嬉しくて、口元に自然と笑みが生まれる。 その後も無明が十しゃべり、白笶が一返すというやりとりが続いたが、不思議なこ
白笶は袖から鍼を取り出し、的確に経穴にうっていく。しばらくすると、心なしか藍歌の顔色が先ほどよりもずっと良くなっているようだった。「······良かった、楽になったみたい」「毒が抜ければ楽になる。だが、今日の奉納舞は諦めた方がいい」 道中の会話で、奉納舞を踊るのが自分の母親だと言っていたのを聞いていた。無明は藍歌の額に浮かぶ冷や汗を布で拭い、心配そうにじっと見つめていた。 昨日の夕方に届けられた新しい衣裳は、そのまま綺麗に畳んで置いてあった。つまり衣裳に仕込まれた毒ではない。状況を見るに、藍歌は先に化粧をしていたようだった。 鏡台の前で倒れていたから間違いないだろう。 違和感はそこにある。「母上はゆっくり眠ってて。後のことは俺がなんとかしてみせるから、」 頬に触れ、安心させるように笑って見せる。眠っているため返答はないが、こうなることを予測していなかったわけではない。ただ今回の件はあまりにも悪質すぎる。今まで様々な嫌がらせは受けてきたが、これは到底赦されるようなことではない。 白笶が無言で部屋を眺めながら歩き回っていることに何か言うつもりはなく、たぶん原因を探しているのだろうと悟る。(けど衣裳まで新調させて、今日の奉納祭を成功させようと、あんなに力を入れていた姜燈夫人が、土壇場でこんなことをするかな?) 口元に眼がいった。ずっと違和感があると思っていたが、改めて藍歌の顔をよく見てみる。そしてふと気付く。こんな派手な紅を藍歌は持っていただろうか?と。(この紅になにか····?) 無明は、藍歌の唇を彩る血のように鮮やかな口紅を、躊躇いもなく自身の親指で軽く拭う。 それを自分の口元に運ぼうとした時、やめなさい、と突然手首を握られ止められる。同じことを思ったのか、部屋を物色し鏡台の上にあった紅を手にした白笶が隣にいた。「思っている通り、これが原因だろう」 うん、と無明は頷き、少し震えた手つきで、藍歌の唇を彩る異様なほど赤い紅を綺麗に布で拭った。 夕方の記憶を辿る。 藍歌が箱を開けた時、無明も隣にいた。美しい衣裳と共に添えられた小物入れのような物があった気がする。犯人の目的は奉納祭を邪魔すること? それとも藍歌に危害を加えること? いずれにせよ、こんなことが赦されるわけがない。たとえ謝られたとしても、赦すわけがない。「······公
始まりの神子によってこの地が拓かれた後。光架の民の中から約百年に一度の間隔で、神子の魂を持つ赤子が生まれるようになる。 成長し十五になると山を下り、各地を巡礼。その地を守護する四神と契約を交わし、その命を国の守護のために尽くすことを誓約する。 始まりの神子と同じ魂を持つ者と四神の関係は主従で、四神は神子の命にしか従わない。そのため各地の一族にとって神子の巡礼はなくてはならないものであった。 その頃のこの国は今以上に怪異で溢れており、妖獣や妖鬼も多く存在していた。当時の神子は、鬼術を操る烏哭の一族と彼らに従う邪悪なモノ、それらを自らの命を以って伏魔殿に封じ、事態を治めたという。 しかしその巡礼は五百十数年前の晦冥崗での大戦の後、一度も行われていない。神子の魂は伏魔殿に多くの邪を封じる代償として、この世に生まれることはなかった。 その打開策として行われるようになったのが、一年に一度の奉納祭。奉納舞を行うことで四神に祈りを捧げ、この地の守護を願うのだ。百年祭の四神奉納舞が特別なのは、かつて神子が巡礼し、契約を交わしていた時期が百年に一度だったから。 各地を守護するそれぞれの四神の契約主は、最後の神子のままになっているため、四神は直接ではなく、宝玉を媒介にして間接的に力を貸している状態だった。 故に、その地の穢れが溜まれば浄化が必要になる。それが百年祭の特別な四神奉納舞であった。通常の奉納舞との違いは、舞う時間が倍以上長いということと、霊力を大量に消耗するということ。**** 中央に置かれた丸い舞台は、歩幅でいえば端から端まで縦横で五歩ずつくらいの幅だろうか。東西南北、東に青、西に白、南に赤、北に黒の宝玉が置かれおり、さらにその舞台の中央には、四神の長で中央を守護するという黄龍が描かれていた。 奥の席に金虎、左側に白群と緋、右側に雷火と姮娥の一族が並んで座っている。 奉納祭が始まると、古くから一族が代々読み上げてきた長い祝詞を、金虎の宗主が重みのある声で読み上げていく。続いて各一族が順にそれぞれの四神へ祝詞を捧げていく。 半刻ほど形式的な儀式が厳かに行われた後、従者たちによって膳が運ばれてくる。綺麗に並べられた精進料理と、盃に注がれていく酒。先ほどまでの重たい雰囲気は消え、賑やかな声すら聞こえてくる。 奉納舞は四神に捧げるものだが、賑やかで華やか
夫人の顔色がさあっと青ざめる。金虎の一族の皆が夫人と同じ心境であったはずだ。「誰だ、あの仮面の少女? 少年? は」「仮面といえば、ほら、例の"ちょっとあれ"な第四公子では?」「だがあの衣裳、女物では····"ちょっとあれ"な第四公子だけあって、そういう趣味もあったとは、」 その姿に対して、その場に騒めきが広がり始めた。そんなことなどまったく気にもとめずに、美しいひらひらとした女性用の舞の衣裳を纏い、真っ赤な口紅を塗った仮面の少年が颯爽と舞台の真ん中に舞い降りた。 白を基調とした薄い衣の裾は赤い金魚の尾のように美しい色合いで、中に纏う朱色の下裳がよく映えた。髪の毛は左右ひと房ずつ赤い紐と一緒に編み込まれ、後ろで軽く括られている。 しかし仮面というたったひとつの特徴だけで、全一族が同時に脳裏に浮かべたのは、"ちょっとあれ"な第四公子の一択だった。噂ばかりで本当に存在しているかもわからない、金虎の第四公子。あの数々の不名誉な噂はどうやら本当だったようだな、と一同が興味津々だった。「お願いですから、こっちに戻ってきてください無明様!」 若い従者は広間の入り口から先には入ってこれないようで、だいぶ憤っていた。 やがて広間がその中心にいる仮面の少年に注目し始めた頃、夫人がなんとか感情を落ち着かせ抑えた声で訊ねた。「無明、この騒ぎはなんなの?」 夫人は、なぜその衣裳を纏ってここに立っているのかとは問わなかった。逆に宗主は彼女になにかあったのだと確信する。「母上が"起きられない"から、俺が代わりに来たんだ。ほら、綺麗でしょ?」 くるっと回ってみせると、ふわりと軽い衣が円を描くように一緒に舞い上がる。(やはり、なにかあったのか······だがこれはどういう考えで動いている?) 今は見極めるのが先決と、宗主はその場から動かず、舞台の上に立つ無明と隣で苛立ち始めた姜燈の様子を窺うことにした。(あいつ····あんな格好でなにをしてるんだ?) 呆然と、竜虎は舞台に立つ神子衣裳の無明の姿を見つめ心の中で思わず呟いた。目をまんまるにしてその場で固まっている璃琳は、もはや驚きすぎて言葉を発することすら忘れてしまっている。「だれか、その子を舞台から降ろしてちょうだい。早く藍歌夫人を呼んできて」 来客の前だからだろう、いつもの三倍は大人しく引きつった作り笑顔で夫
邸に戻ると、飛虎がすでに藍歌の傍にいた。邪魔をするのもあれなので、無明は戻った報告だけして、昨夜の晦冥での出来事はまた後日話すことにした。 ふと薄青の衣が目に入って、あの時の事を思い出す。明後日には紅鏡を離れて碧水に戻ると言っていた。明日は都を案内すると約束した。その時に衣を返すことにしようとひとり頷く。 衣裳を脱ぎいつもの黒い衣に着替える。髪の毛は面倒なのでそのままにしておく。書物や竹簡の山で埋め尽くされた文机を少しだけ片付けて、その空いた場所に伏せた。 頬にかかる髪や落ちてきた赤い紐はそのまま、近くにある書物をパラパラと適当に捲る。「碧水、か。どんな所なんだろ。湖水の都か······綺麗なんだろうな······紅鏡も賑やかで好きだけど、叶うならいつか····他の地にも行ってみたいな」『一緒に、碧水へ、』 あの時の白笶の声が頭に響く。今なら、それもいいと答えてしまいそうな気がする。初めて会ったはずなのに、なんだかわからないが懐かしさを覚えた。いや、覚えていないだけで、もしかしたらどこかで会ったことがあるのかも?(うーん。あんな綺麗な顔のひと、一度でも会っていたら忘れないよね?) 明日また会って話をしたらなにか聞けるだろうか。ああ、その前に宗主に許可を貰わないと····と思ったところで、意識が途切れる。毒はほとんど抜けていたが、色々ありすぎて疲れていたこともあり、無明は机に伏したまま眠ってしまう。 少しして様子を見に来た飛虎が、部屋に静かに入ってきた。そして器用な格好で眠っている無明を抱き上ると、寝台へ運んだ。 正直、今日の無明の奉納舞や立ち振る舞いには驚いた。今まで素顔を覆っていた仮面は無くなり、隠していたモノが皆の前で晒されてしまった。その高い霊力も、能力も、行動力も。 鳥籠から放たれた小鳥が大空に飛び立ってしまうように、無明もいつか、自分たちの前から去っていくのだろうか。「無明、お前は何を望む? 今まで通りの平穏や不変か。それとも大きな変化か」 ここに留めておくのは狭すぎるだろうか。藍歌も言っていた。このままこの小さな邸の中で終わらせていいのかどうか、と。 まだ幼さの残るその寝顔を見下ろし、頬にかかる髪の毛をそっと払う。なにかを決意するように、飛虎は邸を後にした。**** 翌朝。藍歌に頼んで、宗主に外出の許可を貰った。その時
宗主は感情は抑えていたが、低い声音で無明を止める。そして自らは立ち上がり、後ろに立つ周芳の衣を掴んだ。「そ、宗主まで、あの痴れ者の言うことを真に受けるのですかっ」「痴れ者だと? あれは私の子だ。無明だけでなく、お前は藍歌をも侮辱した。すべてが明るみになった時、その身がどうなるか思い知るといいだろう」「叔父上、宗主の言う通りです。なぜこんなことをしたんですか? なんのために、こんな······」 虎珀はいつもの落ち着いた声音とは違う、信じられないという震えた声で、叔父である周芳を見上げていた。「この女がっ! 姜燈夫人がすべて悪いのです! 公子の役目を奪い、あたかもすべてが自分の手柄だとでもいうような振る舞いをするからっ! だから······っ」「だから、藍歌に毒を盛ったと?」 衣を掴んでいた手に力が入り、首が締まる。「それは、いったい誰のために?」「 あなたのために決まっているでしょう!」「私はそんなことを頼んだことなど一度もありません。その企みでこの奉納祭が失敗に終わったら、叔父上はそれを夫人のせいにして、嘲笑うつもりだったのですか? それで私が本当に喜ぶとでも?」 虎珀は淡々と言葉を紡いでいく。身内であるが故に、赦せなかったのだろう。そこに情状酌量の意はない。「父上、どうかこの者とそれに関わった者たちすべてを罰してください」 揖して、改めて虎珀は宗主に頭を下げた。宗主は周芳の衣を掴んだまま、従者を呼んだ。「この者を連れて行け」 宗主が従者の方へ乱暴に放ると、観念したかのように言葉を失った周芳が、力なく項垂れながら連れて行かれた。「無明、藍歌は無事なのだろうな? お前も毒を自分で試したと言っていたが、平気なのか?」「はい、白群の公子様に助けていただきました」 どういう経緯で、とは詳しく聞かなかったが、あとで礼をしに行くことにしよう、と宗主は言った。「後のことはこちらですべて片付ける。皆も思うことはあるだろうが、今回はこれで解散とする」 その言葉を以って宗主は早々に部屋を出て行ってしまった。それに対して誰かが何かを言うことはなく、残された者も次々に部屋を出て行く。無明もまた、それに紛れてさっさと部屋から去るのだった。「母上、絶対に周芳を赦してはいけません。母上を陥れようとするなんて、なんて奴。それにああは言っていたが、お前
「叔父上、どうされたのですか?」「は、早くそれを拭って!」 必死の形相で止めたのは虎珀の亡き母、蘇陽夫人の弟である周芳であった。「ふーん······あなたは父上や夫人、他の者たちが紅を付けても止めなかったくせに、虎珀兄上の時は止めるんだね」「どういう意味だ? この紅はなんなんだ?」 塗ってから急に不穏なことを言われて、虎宇は青ざめる。「別に何の変哲もないただの紅だよ。これは、ね」「痴れ者が、諮ったなっ!」 その表情や声には憎しみと恨みと、事が明るみに出てしまったことへの落胆が入り混じっていた。「こうも簡単に引っかかるなんて、こっちがむしろ驚いてるよ。本物かどうかなんて、正直な話、五分五分だったでしょ?」「こんな茶番に何の意味があるというの?」 夫人はいい加減呆れて、肩を竦める。「母上はこの紅が原因で、倒れたんだよ」 懐から本物の毒入りの紅の入った小物入れを取り出して、夫人の前に差し出した。その場にいた全員が真っ青になり、慌てて自分の唇と指に付いた紅を一斉に拭う。「倒れただって? いったいどういう紅なんだ ?」「あ、さっきも言ったけど、みんなに塗ってもらったのは普通の紅だから、大丈夫だよ?」 黙れ!と忌々し気に虎宇が今日一の怒鳴り声を上げた。その場の皆が同じ気持ちだったのか、こちらを見る目がどこか鋭い。「だって先に言っちゃったら、意味ないでしょ?」「お前、いい加減に····っ」「それが毒かどうかなど、誰が解るというんだっ! お前が適当に言っているだけだろう? そもそも私がそれを用意したという証拠はどこにもない」 虎宇の台詞を遮るように、ものすごい剣幕で周芳が怒鳴りだした。「自分で試したから実証済みだよ。あの毒紅はひとによって時間差はあるけど、まあまあ即効性があるよね。そして放っておけば重症になりかねない、とても危険なものだった」「だから、それで私が用意したという証拠にはならない」 虎珀の手首を解放し、周芳はふんと自身の潔白を訴える。まあ、確かに直接その手で用意したという証拠にはならないし、そのあたりはすでに対処済みなのだろう。「そもそもお前は自分で実証したというが、どう見ても毒に侵された様には見えないが? お前の方こそ嘘を付いているのでは? 紅に毒が盛られていたと嘘を付き、藍歌殿が舞を舞えなかった不始末を誤魔化そうとし
改めて正面から本邸に入ることを許されると、なんだか逆に後ろめたさが残った。強行突破した時の方が生き生きとしていた気がする。 いつもの若い従者ではなく、本邸の中年の従者の後ろを間隔をあけてついて行く。すれ違う従者たちは、仮面があろうがなかろうが、相変わらず珍しいものでも見るような眼差しで無明を見てくる。 そういう眼をされるといつもの調子でへらへらと笑ってみたり、手をひらひら振ってみたり、くるくると回ってみたりと、どうしてもふざけたい気持ちがわいてきてしまうのだが····。なんとかその衝動を抑えて大人しくついて行くと、立派な部屋の扉の前に案内された。「宗主、連れて参りました」 入りなさい、と奥の方から声がして、従者は「失礼します」と扉を開いた。そこには宗主、夫人、義兄たち、竜虎や璃琳、そして他の親族たちが揃っていた。 無明は部屋に入り、宗主に向かって挨拶をすると、一族の者たちがこちらに注目する中、部屋の真ん中で立ち止まる。 奉納舞の衣裳のままでやって来た無明を、なにか言いたげな様子で睨んでくる虎宇だったが、無暗に発言すれば面倒だと察したのか珍しく大人しくしていた。「では、改めて説明してもらおう。あの奉納祭の前に何が起こっていたのか」「はい、父上」 親族たちに囲まれた中心で、無明は臆することなくまずは一礼する。「その前にひとつ、お願いがあります」 なんだ、と宗主は問う。立ち上がり宗主の目の前まで歩きその場に跪くと、無明は懐から小物入れを取り出す。「ここにいるみんなに、この紅を塗ってもらいたいのです。男も女も関係なく、みんなに、です」「······なんのために?」 さすがに唐突すぎたのか、宗主も驚きを隠せないようだった。まあ確かに理由くらいは知りたいだろう。男が紅を塗るのは抵抗があるだろうから。 案の定。「まさか、お前の気色の悪い趣味に俺たちを付き合わせる気か? 俺は絶対に嫌だからな!」 第二公子の虎宇が大声で怒鳴る。それに合わせるように他の親族たちも各々声を上げる。まあそういう反応にならない方がおかしいだろう。「父上、何も言わず、俺の言う通りにしてもらえばすべてが解決されるはずです」 まだなんの事情も聴いておらず、それなのに言う通りにしろというのも横暴だ。しかしふざけているわけでも、趣味に付き合わせているわけでもない。これはとても
夕方になった頃、頬に触れられた冷たい手に気付いて目が覚める。「········母上、もう起きても平気なの?」 困ったような顔で藍歌は見下ろしてくる。「ええ。でも今度はあなたがそんな状態だったから、驚いてしまったわ」 自分の寝台の下で倒れていた無明の姿を見た時、心臓が止まるかと思った。目が覚めて最初に視界に写った我が子は、顔色が悪くとても苦しそうに息をしていたのだ。だが今の力が抜けた自分の腕では寝台に運ぶこともできず、額の汗を拭ってやることくらいしかできなかった。「まだ起き上がらない方がいいわ、」 無理に起き上がろうとしている無明の肩を抱いて優しく諭すが、ふるふると首を振ってなんとか身体を起こす。「大丈夫。さっきよりはずっと楽····って、あれ?」 なんとか身体に力を入れて起き上がろうとしたその時、身体に掛けられていたのだろう薄青の衣が、膝の上にはらりと落ちた。毒が回っていたはずの身体がかなり楽になっている。薄青の衣を軽く握って、無明は白笶が毒の処置をしてくれたのだと察する。(目が覚めるまで、ここにいてくれれば良かったのに。奉納祭の御礼もまだ言ってない····) 外の様子を見れば夕方になっていた。どうやらあれからかなりの時間、ここで眠っていたようだ。「母上、父上からの使いはまだ来ていないよね?」「なにかあるの?」 こく、と頷き、藍歌が倒れた後に起こったことをすべて話す。奉納舞が上手くいったことや、その後のことも。「では、あの方がこんな企みを? いったい何のために、こんな、」 正直、あまり関わりのない人物の名前が出たことに、藍歌も腑に落ちない表情をしていた。「それはもちろん、本人の口から、宗主の前できちんと話してもらうよ」 どんな言い訳をしようが、絶対に言い逃れができないようにする。そして正当な罰を下してもらうことが、今回の件のけじめなのだ。「母上の方こそ、まだ身体を休めていた方がいい。俺は大丈夫だから、」 ね、といつもの無邪気な笑みを浮かべ寝台に促す。仕方なく、藍歌は言われるがままに元の場所へ戻った。「失礼します。宗主より公子様にお呼びがかかりました。準備が出来ましたら、お声掛けください」 外から聞こえてくる声に、うん、わかった! と無明は答える。衣裳を着替えるのも面倒なので、髪の毛だけいつものように後ろで一本に括る。赤い
奉納祭の後、竜虎や璃琳たちのようなまだ若い者たちは解放されたが、奉納舞の一件もあってお詫びの意味で宴が用意された。姜燈夫人が急遽機転を利かせて開いたため、従者たちは今も慌ただしく仕事に追われているようだ。 奉納舞での無明の言葉が気がかりだったので、竜虎は本邸を離れ別邸へ向かうことにした。璃琳もついて行きたいといったが今回は我慢してもらった。 無明と藍歌夫人が住まう邸の低い塀の前を通りかかった時、薄青色の衣の青年が中へ入っていく後ろ姿が見えた。(あれは······白笶公子?) なぜあのひとがこんな所に? という疑問と、昨夜のこともあって、竜虎は少し心配になってこっそりと後を追う。(······そいういえば、あの時もらしくないことをしていた) 彼が大勢の前であんな風に発言をする姿など、一度として見たことがない。少なくとも奉納祭のように、他の一族が集まるような場で彼が言葉を発した所を見たことがないのだ。(俺たちが先に帰った後、なにかあったのか?) 自分が目を覚まして庭に出た時も、ふたりで何か話していた。初対面のはずなのにあの距離感も気になった。ぶんぶんと頭を振って、竜虎は巡らせていたものを振り払う。 なんにせよ、そもそもの原因は明らかだ。(あいつ····本当になんなんだ? 急にまともな姿を見せる気になったってことか? それとも単純に藍歌夫人のために動いただけ?) 無明のあの仮面が外され、その顔を初めて見た時、不覚にも言葉を失った。そしてあの見事な笛の音と舞が、今も脳裏に焼き付いて離れない。 そんな事を考えている内に、白笶はどんどん先に進んでいく。けして広くはない邸だが、部屋はいくつかある。しかし彼は辺りを見回すこともなく、迷わずにその一室へと足を向けた。 竜虎は邸の中へは入ったことがなかったので、その様子から彼がここに来たことがあるのだと確信する。そうなるとあの時の彼の言動にも納得がいく。憶測だが、自分たちが去った後、なにか経緯があって無明と共にこの邸に来たのだろう。 あの仮面は力を封じるための宝具だった。 無明が舞を舞うための策として白笶に協力を頼み、白群の宗主まで巻き込んで、仮面を外すための流れを作らせたのだ。隣の席の緋の宗主がのってくれたのは幸いだったろう。(だが、彼がそれをしてやる義理はないはず) 助けられたのはこちらで、恩があ
「今のは······、」「見事な舞だったぞ、公子殿! 花見酒なんて粋なことをする」 上機嫌になった緋の宗主が、盃を掲げてこちらに声をかけてくる。正直、このどこからか降って来る無数の花びらたちは、無明が用意したものではない。 おそらく、あの声の主たちがやったのだ。宝玉の主たち。四神。どうやらあの声は、自分にしか聞こえていなかったらしい。(なんで俺が? それに······待っていると言われても困る。俺はこの邸から出るだけでもひと苦労だっていうのに) この紅鏡からは離れられない。 そもそも彼らの言う神子でもない。 ふと、白笶と眼が合った。現実に戻されるように本来の目的を思い出す。こく、と頷き口元を緩める。目的のひとつは達成したがこれからが本題なのだ。 長い時間霊力を消耗した上に、笛を吹きながら長時間舞っていたというのに、無明は息ひとつ切らしていなかった。舞台を下り、そのまま宗主や姜燈夫人の前に立つと、ゆっくりと跪いてそのまま頭を下げた。「出過ぎた真似をしたことを、お許しください」 予想もしていなかった言葉に、夫人は驚いた顔をしていた。いつもの言動からは考えられないほど謙虚で礼儀正しいその姿に、その場にいる親族の誰もが目を疑う。「いえ······助かったわ。あなたがいなければ奉納祭自体が成り立たなかったわ」「母上、こんな奴に礼など不要です。最初のあの姿で十分恥を晒しました。望み通りに罰を受けさせるべきです!」 虎宇はふんと鼻を鳴らして無明を睨む。その理不尽な言動に無明は頭を下げた姿勢のまま、唇を軽く噛みしめる。「母上、それはおかしいです。あいつはちゃんと舞を舞って、四神の宝玉も浄化されました。それよりも藍歌夫人が心配です」 兄の滅茶苦茶な言いがかりを見ていられなくなった竜虎が、思わず反論をする。お前はどっちの味方なんだと、睨まれた。「とにかく、すべては奉納祭が終わってからだ。あとで使いの者を送るから、それまでは邸で控えているように」 わかりました、と無明は宗主の提案に頷く。再び舞台の方へ向き直ると、そのまま無言で広間を後にした。 賑やかしい広間を抜けて渡り廊下の方を歩いていた時、ひとりの従者が駆け寄ってきた。それはいつも邸に膳を運んできたり、周りの世話をしてくれている若い従者だった。騒動の際、広間の入り口で無明の衣を遠慮なく引っ張り、必死
その低く落ち着いた声の主は、白群宗主の白漣であった。各一族の宗主の中でも年長者で貫禄のある白漣は、すっと手を挙げて発言の許可を求めていた。「白漣宗主、なにかご意見でもおありですか?」 辺りが急にしん、と静まる。軽く礼をし、白漣宗主は顔を上げた。「その方も公子のひとりとお見受けします。話を聞く限り、光架の民の血を引く藍歌殿の子であれば、資格は十分にある。他の一族のことに口を出すつもりはないが、奉納祭を続けるためには彼の力が必要なのでは?」「お、お言葉ですが、この子にはそんな技術も能力もありません。ましてや貴重な四神の宝玉を浄化するなど、あり得ないことです」 慌てて姜燈はその提案に首を振った。「では、この事態をどう治めるんだ? 奉納祭を中断するなど聞いたことがないぞ」 白群の隣に座していた緋の一族の若き宗主、蓉緋が肩を竦める。反対側に座る雷火や姮娥は、ただこの騒動を眺めているだけで口は出さなかった。「ではこうしてはいかがだろう? 公子殿の言う通り代理として舞い、もし失敗するようならば罰を与えては?」「それはいいな。能がないのにしゃしゃり出て来て場を乱したのだから、それ相応の罰を与えるのが妥当だろう。この奉納祭が前代未聞の延期となれば、金虎の威厳にも関わる」 口の端を釣り上げ皮肉そうに笑って、蓉緋は話にのってくる。真っ赤な衣はどの一族よりも派手で、そのよく通る良い声も目立つ。そんな中、同じようにすっと静かに手を挙げる者がいた。「······その仮面を付けたまま舞うのですか? 顔を隠して舞を舞うなど、神聖な四神に失礼かと」 その低いがよく通る声の主に、大扇を広げて隣に座っていた白群の第一公子や、後ろに座っていたふたりの若い従者を含む、その場にいたすべての者が驚愕する。(白群の第二公子は口が利けたのかっ!? ) と、その場にいた者たちはほぼ同時に、同じ言葉を心の中で叫ぶ。「ははっ! こりゃあ面白いものが見れたぞっ」 手を叩いて大笑いをする蓉緋を無視して、白笶はそれ以上何も言わなかった。またざわざわと辺りが騒ぎ出す。「静粛に、」 飛虎は場が静まるのを待つ。その間、無明をまっすぐに見つめて、仮面の奥の瞳を窺う。微かに真っ赤な唇の端が上がっていた。(お前の思う通りになっていると?) おかしいとは思っていた。その行動や言動に気を取られて、今の
夫人の顔色がさあっと青ざめる。金虎の一族の皆が夫人と同じ心境であったはずだ。「誰だ、あの仮面の少女? 少年? は」「仮面といえば、ほら、例の"ちょっとあれ"な第四公子では?」「だがあの衣裳、女物では····"ちょっとあれ"な第四公子だけあって、そういう趣味もあったとは、」 その姿に対して、その場に騒めきが広がり始めた。そんなことなどまったく気にもとめずに、美しいひらひらとした女性用の舞の衣裳を纏い、真っ赤な口紅を塗った仮面の少年が颯爽と舞台の真ん中に舞い降りた。 白を基調とした薄い衣の裾は赤い金魚の尾のように美しい色合いで、中に纏う朱色の下裳がよく映えた。髪の毛は左右ひと房ずつ赤い紐と一緒に編み込まれ、後ろで軽く括られている。 しかし仮面というたったひとつの特徴だけで、全一族が同時に脳裏に浮かべたのは、"ちょっとあれ"な第四公子の一択だった。噂ばかりで本当に存在しているかもわからない、金虎の第四公子。あの数々の不名誉な噂はどうやら本当だったようだな、と一同が興味津々だった。「お願いですから、こっちに戻ってきてください無明様!」 若い従者は広間の入り口から先には入ってこれないようで、だいぶ憤っていた。 やがて広間がその中心にいる仮面の少年に注目し始めた頃、夫人がなんとか感情を落ち着かせ抑えた声で訊ねた。「無明、この騒ぎはなんなの?」 夫人は、なぜその衣裳を纏ってここに立っているのかとは問わなかった。逆に宗主は彼女になにかあったのだと確信する。「母上が"起きられない"から、俺が代わりに来たんだ。ほら、綺麗でしょ?」 くるっと回ってみせると、ふわりと軽い衣が円を描くように一緒に舞い上がる。(やはり、なにかあったのか······だがこれはどういう考えで動いている?) 今は見極めるのが先決と、宗主はその場から動かず、舞台の上に立つ無明と隣で苛立ち始めた姜燈の様子を窺うことにした。(あいつ····あんな格好でなにをしてるんだ?) 呆然と、竜虎は舞台に立つ神子衣裳の無明の姿を見つめ心の中で思わず呟いた。目をまんまるにしてその場で固まっている璃琳は、もはや驚きすぎて言葉を発することすら忘れてしまっている。「だれか、その子を舞台から降ろしてちょうだい。早く藍歌夫人を呼んできて」 来客の前だからだろう、いつもの三倍は大人しく引きつった作り笑顔で夫